「小説」を軽んじる

「えー、小説って簡単に書けるんだ? なら私も今度は小説本出そうかな!」

 

初めてコミケに申し込んだ夏、友人に言われた言葉は今も覚えている。

初申し込みでスペースが貰えた私は、それはもう必死で書いた。とはいえ元々デッドライン症候群だった為、ギリギリで、しかも自家製コピー本だったからイベント前々日まで書いて前日は丸一日コピーし続けるというギリギリ進行だったのだが。

とにかく私は張り切っていたし、この頃はまだ若かった。二徹三徹してもどうにかなったので、大体一週間で三冊ほど作ったと思う。今思い返してもコピーの間中眠くて仕方なかったし、実際仮眠をしてはコピー機がやれ紙が切れたインクが終わると喚くのでそれをどうにかしつつ頑張った。

結果、どうにか頑張って本を並べた結果言われたのが上記の台詞だ。相手は絵描きの友人だった。

確かに漫画と小説では掛かる時間が違う、と思う。本当に人によると思うし、比べられるものではないだろう。この頃の漫画はアナログ主体で、まだデジタルは浸透していなかった。私自身昔は多少漫画も描いたので、作業の多さは重々承知している。が、それでも「何言ってんだこいつ」と思った。彼女の書く小説は「///」や「☆」「♪」が乱舞していたせいもあるのだろう。照れたとか嬉しいとかそういうのは地の文で表現してくれ頼むから。

 

小説、というより文字は軽んじられやすい。その風潮は今も残っていると思う。最近見た奈須きのこ先生の対談で、先生本人が「シナリオは軽んじられやすい」という話をしていたのだが、日本では「作文」を義務教育で行うこともあり、文なら書ける、或いは絵より簡単そうだ、と思いやすいのかもしれない。

そう、絵は難しい。図画工作の授業で心を折られた人間も多いのではないだろうか。そうでなくとも、脳内で想像したものをそのまま描き起こすことが出来るというのは一種の才能だ。だからこそ「絵を描けるのはすごい」となりやすいのだろう。しかし、実際どれだけの労力が払われているのか、どれほど時間が掛かるのかまでは分からない人が多い。だからこそ「ぱぱっと描いてよ」などという言葉が存在するのだろう。それもそれで非常に腹立たしい。

 

無論、描けない(書けない)上で、作品を作ることがどれだけ大変なことかを知っている人もいる。少なくとも私の今のTL上にいる人は皆そうだと思う。

「絵が描けるんなら似顔絵描いてよ! 描けるなら簡単でしょ?」などと言う人は一人も居ないし、きちんと金銭のやり取りを行った上で絵師に頼む、それが当たり前である、という常識が広がっている。

文章にしたって書けば「ありがとう!」と言ってくれて褒めてくれる友人がいる。本当にありがたいことだと思う。それでも世の中には、何かを生み出すことが簡単だと思う人は一定数いるし、自分が生産者でも他人の苦労まで想像が及ばない人間は存在するのだ。

それが勿体無いだとか哀しいだとかは言い出すとキリがない。が、軽んじられて「そうだよねー!分かる!」という人間は早々いないし、居たとしても恐らく口だけで心の中では強い殺意と恨みを抱いているので気を付けた方がいい。

 

ちなみに上記の台詞は十年は前の話だけど未だに私は忘れてないし今後も忘れないと思います。許さん。

積読にNoを言う

最近、本を買っても読めない。積読状態だ。でも、そもそも積むだけで読めてない状態って果てしなく勿体なくない?この世には読み切れないほどの本があるのに。そして私には今時間があるのに。何にも読めてない。買うだけ。
購買意欲を満たしているといえば聞こえはいいのかもしれないけど、私は読みたくて買った筈で、知識を増やす一環のつもりだったのに。

大きめの本屋に行くと、毎回ワクワクする。ここにあるものだけじゃなく、本は日々増え続けていて、そうしてそれら全てを私という個人が読み切る日は絶対に来ないのだと思うと、取り巻く知識の量に胸が踊るのだ。
どちらかと言えば「読み切れない」ことを寂しく思ったり、絶望に感じたりする人が多いのかもしれない。でも、私は何だかとてつもなくワクワクする。

なので、読めない本がいくらあろうと困りはしないのだが、自分で買ったものは別だ。
最近はデザイン関係の本を買った。勿論デザイナーなんていうクリエイトな職業には向いていないので、個人的に「少しでも薄い本を作る時の参考にならないかな」という動機で購入したものである。
ノンデザイナーズ本、というのも気になっているがそれはまだ購入していないのでここでは割愛する。

昔に比べて、今は本を買うのも容易だ。大型書店で見本誌を確認しなくても、ネット書店で軽く中身を確認したり、評判を調べられる。
5段階評価の信憑性の是非は置いておいても、レビュー内容を見れば「買ってもいいレベルか」は何となく推し量れるし、Twitterで検索すればそれこそ生の声がゴロゴロ転がっているだろう。
中身が書店に行かずとも見れる、というのは本当に有難い。特にこれだけ種類があると、どれが自分に向いているのかを探すだけで一日が潰れてしまう。
似た内容を扱う本の中で、より自分向けのものを探す。それが容易になってきたことは素晴らしい。


だが、結局手に入れたところで読まなければ意味は無いのだ。
しかし、春眠暁を覚えず。この時期は眠い。正直冬も眠かった。何なら風邪まで引いて余計に眠い。この状態で文章が頭に入ってくるかといえば否としか言えない。

タイトル通り積読を止めるにはまだ時間が掛かりそうだ。という益体もない話でした。南無。

マナーとはなんぞや。

マナーとは気遣いである。


はい、2行で完結しましたね。世の中というのは大体そんなもんです。
完全に人のブログの内容に乗っかってるんですけど、そもそも「マナー」という言葉そのものが気遣いの塊だと私は思ってます。
だって「この常識知らないんだ」って言われるより、「このマナー知らなかったんだね」と言われる方がずっと優しいから。
常識知らずって言われたらショックじゃありません?マナーは「時と場合によるものじゃん!」って反論出来るけど、常識については知らないんだーって言われるとちょっと傷付く。
なので、物事を円滑にする為に使われやすい言葉という側面もあると思います。
とっくりの注ぎ口を使わないとかは知らんけど。そういうとんでもマナーは別としてね。


ペンラは胸の高さまで。
これはどうしてか?後ろの人からすると邪魔になって肝心の演者がよく見えないからです。

荷物は床に置かないように。
踏まれて中身がぐちゃぐちゃになったり壊れたりしても誰も責任を取れないからです。

ヒールを履かないように。
ヒールの踵で踏まれるとめちゃくちゃ痛いし、骨が折れることもあります。誰かに怪我を負わせたらその責任を自分が負わなければなりません。


「これはいけないことだよ」「こういうマナーがあるよ」というのは、先達の方々が何かを楽しむ上で大事にした方がいいと考えたものです。
逆に言えば、必要だから今も残っている。それらを「常識」と言ってしまうのは簡単ですが、暗黙の了解を知らないことが常識知らずと呼ばれるのは悲しいな、と思います。
間違えちゃったら、次から気をつければいい。出来れば行く前にレギュレーション(何がOKで何がNGか)とかは調べた方が気楽に楽しめるとは思います。

なので、マナー守れ!とか口うるさく言うのでもなければ、常識がない!と罵るのでもなく、「何があってもおあいこ精神」で過ごせればいいですよね。
最初から完璧な人なんて何処にもいないし。

ただ、公式で出てる「これは守ってね」というガイドラインだけは頭に叩き込みましょう。非公式で「頭振るのが普通」とかそういうのは個人の自由ですが、公式側からの言葉は大切にしてください。
こちらが守れないと次回から先が無くなる可能性もあります。そこだけ留意して、あとは自分のスタンスで楽しく過ごせればいいなーと思います。


眠気でゆるーっとした文章なので、また改めてしっかりこの辺の話を書けたらいいなあ。